2024年12月

さて皆さんこんにちは。

久しぶりの投稿です。江戸東京を学ぶ 浅草界隈をおくります。

今回はJR東日本大人の休日俱楽部趣の会主催のツアーに参加しました。

講師はなんと女流落語家さんで、三遊亭遊之介師匠の愛弟子の

落語芸術協会に所属している二つ目の三遊亭遊七さんです。

遊七さんは文京区千駄木の生まれで早稲田大学卒業の学士さんで

落語のほかに東京のおもな河川の船上ガイドや都内の歴史散策ガイドを

落語と掛け合わせて活動をしています。

 

当日は東武浅草駅前に25名の参加者が集合しスケジュール確認後、遊七さんの

それでは皆さん参りますの掛け声でインバウンドの観光客をかき分けながら馬道通りを伝法院に向けて移動です。

伝法院通りに入ると両側のレトロな商店の壁や屋根上に歌舞伎の白波五人男の人形が出迎えてくれます。歌舞伎の正式な題目は

青砥稿花紅彩画(あおとぞうしはなのにしきえ)です。それぞれの劇中の役名は弁天小僧菊之助、日本駄右衛門、忠信利平、

赤星十三郎と南郷力丸の5人です。そしてプラスアルファでねずみ小僧がいます。

仲見世通りを横切り伝法院の御門をすぎると右手に火除け、盗難除け諸芸上達の守護神鎮護堂、別名御タヌキさまがあります。

これからの冬枯れの季節には生垣の隙間から小堀遠州が築造した回遊式庭園が垣間見えます。タヌキは伝法院の守護神です。

   

 

さて、そろそろ興行街の六区に来ました。昔は映画館(当時は活動写真館)が17館、劇場が7館ありました。しかし、現在は

遊七さんの定席の浅草演芸場とストリップ劇場のロック座と旅芸人の木馬館の3館のみです。

木馬館は明治40年昆虫学者の名和靖により通俗教育昆虫館として開館し、昭和13年、浅草オペラのあとをうけ、安来節を興業の

中心に常打ち小屋となり、その後、昭和52年から現在の大衆演劇の劇場へと変わりました。

この先を進むと江戸時代から奥山と呼ばれるところに出ます。小さな公園には日本のナイチンゲールと言われた慈善事業家の

瓜生岩子の銅像が、渋沢栄一が発起人となって建立されています。

以前、台東区ミニバス巡りで紹介した無声映画の活動弁士の碑もあります。

 

また、この一帯は浅草寺の境内で多数の御堂があります。

淡島堂は元禄年間に建立され、ひと時、東京大空襲で本堂が焼失した後に仮本堂と

なり、ご本尊が安置されやがて影向堂として二天門そばに移転、平成6年に現在地に

移築されました。お堂前の石灯篭は胎内くぐりの灯篭として江戸時代に奉納され子供の

虫封じや疱瘡(ほうそう)除けになると言い伝えられています。

浅草寺の境内には都内最古のものが実は三つあります。

一つ目は影向堂境内にある六角堂です。浅草寺は過去に18回焼失しています。

六角堂は元和4年江戸時代初期の建築と言われている400年近く頑張っている

六角形の木造建築です。

二つ目は淡島弁天池に掛かっている石橋で同じく元和4年浅草寺に東照宮が

造営された際に参詣の為の神橋として徳川家康娘、振姫の婿和歌山藩主浅野長晟が

寄進したもの。浅草東照宮は徳川二代将軍秀忠が東照宮廟を建立の寛永の大火で

焼失し、上野寛永寺に再建されて現在に至っています。

三つ目は浅草神社鳥居横の二天門です。二天門は同じく元和4年に東照宮の随身門

として建てられ、門に祭られている像は、左が増長天、右が持国天です。その後、

明治の神仏分離令により二神が廃され二天がおかれて三条実美の書による二天門の

額が掲げられ二天門に改名され今日があります。最初の二点像は戦災で焼失し、

現在のものは上野寛永寺の徳川家綱の霊廟の勅額門から賜ったもので、門自体は

慶安2年(1649年)に建立されたものです。

    

 

さて、ここから馬道通りを渡ろう。

渡った左手に都立産業貿易センター(台東区民館)があるよ。

ここの8階には上野精養軒のレストランがあり本店よりリースナブルな食事と

素晴らしい景色が楽しめます。右手には台東区で一番古い(明治10年創立)

浅草小学校があり、両側に花川戸公園があります。左側には歌舞伎の助六の歌碑や

姥ヶ池(浅茅ヶ原の鬼婆、旅人を999人殺し遺体を池に投棄しその金品で生活、

旅人に扮した一人娘を殺めてしまう。)が僅かに形を変えて残っています。 

 

 

「そろそろお昼時です。」の遊七さんの掛け声で隅田公園内を吾妻橋の袂にある屋形船の網清さんの乗り場まで移動です。

吾妻橋、浅草側土手下に網清さん専用の船着き場があります。遊七さん、趣味の会のコンダクターさんと参加の皆さんと

乗り込みました。船は何と定員120名の大型屋形船です。30名弱のメンバーで広い空間を占領です。船は隅田川河口の

浜離宮恩賜庭園に向けて出発です。

蔵前橋を過ぎたころ箱膳の刺身盛り合わせ、酢の物と茹でたての枝豆がテーブルに並びます。そして勇七さんによる江戸時代と

現代の水運通路の解説を聞きながら暫しの会食タイムです。更に清洲橋付近では揚げたての新鮮具材の天ぷらが登場です。

ほろ酔い気分でいると浜離宮の入り江に到着です。海側から見る景色は初めてでした。錨を下ろし、船を止めると遊七さんの

江戸下町の落語と踊りを暫し楽しみました。

     

 

余興と美味しいお料理を楽しんだのでそろそろ戻りましょう。帰りは往路と違い晴海ふ頭から晴海運河を通り東京海洋大学の

記念物の明治丸を見ながら相生橋をくぐり隅田川に合流、少し進むと右手に小名木川がみえてきました。

遊七さんの解説によるとこの川は江戸に幕府を開いた徳川家康が行徳塩田から生活に必要な塩の運搬の為、小名木川四郎兵衛に

命じて行徳までの開削させたもので、その後、塩以外の物や成田参詣客も運ぶようになり江戸物流の重要河川となりました。

そうこうするうちに吾妻橋が近づいてきましたが、着岸せずそのまま進み水戸徳川下屋敷跡の隅田公園を右岸に見て白髭橋付近で

反転し台東体育館横の旧山谷堀口の由来、よろず吉原山谷堀と歌われ江戸名所の一つに挙げられる風情ある場所で船の出入りが

多く、江戸時代、新吉原遊郭への水上路として隅田川から吉原大門近くまで猪牙船が遊客を運び粋な山谷通いと言われました。

おまけの話が有ります。それは馬道通りと観音裏の言問通りの交差点を言問橋方向に右折して500mほど歩を進めると猿若町の

のぼりが見えてきます。ここは江戸歌舞伎発祥の地で三つの芝居小屋がありました。天保十二年徳川幕府は天保の改革のため

境町、葺屋町、木挽町(現中央区)より芝居小屋を移転させ、天保十三年、中村座、薩摩座、市村座、結城座、河村座が移転して

きました。このうち中村座、市村座、河原崎座が、世にいう猿若三座です。町名は江戸芝居の始祖と言われた猿若勘三郎の名を

とってつけられました。時間があれば付近を散策してみてください。

町内には歌舞伎小屋の石碑がいくつか点在しています。それを見つけてね。おしまい。